【夫天地者萬者逆旅。光陰者百代之過客。而浮世若夢。........】

なかんざわの山小屋



【新しい旅立ち】と書くと、どうしても松尾芭蕉の【奥の細道】のはじめが頭に浮かんできます。
【月日は百代の過客にして、行きう年もまた旅人なり。船の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老いを迎える者は、日々旅にして旅を栖とす。...】
 自然や文化とふれあうためには旅をするのが一番と思い、その拠点を探していたところ、郷里の知人から山小屋を借りることになりました。
 まずは、ここを拠点として郷里でのボランティア活動、そして北アルプスを探索してみたいと思っています。
(2009/11/20)

1月26日 大雪に見舞われました。




萌芽


私たちが10年後、20年後にどうなるのだろうかと考えたときに、私たちが既に今、芽として持っている技術をベースにしたモノは比較的容易にその延長線上に想定できます。

しかし、今、持っていないモノ、見えていないモノは
なかなか想像出来なくて、
ある日突然何か新しいモノがひょっと出てくる、
ひょっとと言っても突然全部が出てくるわけではなくて、
その萌芽が出てくると言うことです。


これから10年先を予測したとき、
今、萌芽が出てきているモノ、まだ見えていないモノを想像して
10年先、20年先を想像してみるのもまた楽しいのでは!!

土筆(つくし)
トクサ科トクサ属の杉菜(スギナ)の胞子茎
「つくし」の名は船が港へ入る通路を示した杭の「澪標(みおつくし)」から、スギナについて生えることから「付く子」、土を付いて出てくることから「突く子」、からついたなどの説がある。また「土筆」の文字は土にさした筆のように見えるところからの説もある。

ゆびきたすによって世界は変わる

【いつでも、どこでも、誰もが、好きな、あるいは必要とする情報が得られる社会システム】

2008.8.28

インターネットがこれほど普及、商業化すると10数年前に誰が予測したでしょう。
ことの起こりは、クリントン大統領がホワイトハウス入りし、情報収集設備の陳腐さから得たヒントが、萌芽となり、その後の米国の経済活性化につながったわけです。

1993年9月に米国クリントン政権は、『誰もが情報にアクセスできるネットワーク』の構築を目指しNⅡ(National Information Infrastructure 情報インフラストラクチャ)構想を掲げました。
翌年には、GⅡ(Global  Information Infrastructure)構想が掲げられこれがドライブスルーとなり今日のネットワーク社会を迎えています。
マルチメディアって何? インターネットって何? と言っていた時からわすが10数年です。

日本では、これより早く1991年 マンダラ計画】と呼ばれた日本全国に10台のスーパコンピューを配置し、これをギガビットネットワークで結び、各種情報の収集配信をおこなう構想がありました。しかし、これはスーパーコンピュータ関係の人をのぞいて知られていませんでした。

残雪の白馬岳 5月

晩秋の剱岳 10月

残雪の剱岳 5月

最近 剣岳 8月

ニックネーム ウェブコンポーザ kytake


郷里   富山県 朝日町 笹川
現住所 神奈川県
趣味  アウトドア、映像&コンピュータ
URL  http://www.ubique.jpn.com
           このサイトのubiqueと言う名前の由来は、
           ラテン語で、「神はあまねく存在する」と言う言葉から命名しました。
           英語では、Ubiquitous(ゆびきたす)

以下に、私が好きな人、尊敬する人々について書いてみました。
(タイトルをクリックすると内容が現れます。)

ジョン・F・ケネディ(第36代アメリカ大統領:1961/1/20)

1961年1月20日 ワシントンの議事堂前で大統領就任演説が行われ、その後半にニューフロンテイアについて述べています。



ニュ-フロンテイァとは、
【諸君のために私が何かをしようと約束することでははなく、諸君が国家のために何が出来るかを問うことである。】

1963年11月22日、テキサス州を遊説中に暗殺されました。
この日は、米国~日本で初めて衛星中継が行われる日で、ケネディ大統領の演説も放映される記念すべき日でした。
真夜中にアルバイト先の電話が鳴りケネディ大統領が暗殺されたことを知り、大変なショックを受けました。

回想録【ケネディの道:シアドア・C・ソレンセン著、大前正臣訳】

池田勇人(第58,59,60代総理大臣(1960/7/19~1964/11/9)

所得倍増計画の発想
  【貧乏人は麦を食え】
  池田氏の発言やスローガンについてはいくつか有名なものがあります。
1960年 所得倍増計画の推移について国会で述べている画面です。


1950年3月1日の記者会見の際に、大蔵大臣だった池田氏は「中小企業の倒産や自殺はやむを得ない」と発言し、国会、マスコミから追及されました。

また、1950年12月7日の参議院の予算委員会においては、木村禧八郎議員の米価および麦価に関する質問に答弁する際、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。」と発言し、これが「貧乏人は麦を食え」と伝わったため、失言としてマスコミから強い批判を受けました。

この発言の真意は、池田氏が小さい頃から麦食であったため、お互いに苦しいときは麦飯を食べて頑張ろうではないか、というものだったと言われています。

失言ではありませんが、
 首相時代に国会での答弁で、【私は嘘は申しません】と言われたのを覚えています。実直な人だったと思っています。

 回想録【池田勇人その生と死:伊藤昌哉著】

正力松太郎

1885年4月11日富山県生まれ。帝大卒業後、警視庁入りした。
米騒動鎮圧など数々の功績を残されたが、虎ノ門事件の警護責任を負い官界をさる。
正力氏には【負の過去】がある。戦前一貫して聖戦賛美論調を煽っていった。これが為、戦後、A級戦犯に指名され巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所。この時の裏取引がCIAとの関わりである。
しかし、出所後、読売新聞社の社長に就任。新聞の徹底的な大衆化を図った。
飛躍的に読者層を拡大しながら、日本にプロ野球を紹介するなど、
後に下記に示すテレビの普及に貢献することになる娯楽の企業化を促進した。

テレビの普及:
日本占領政策を推進する米国の日本の電波を一括管理する「日本テレビ放送網構想」を知り、米国に使者を送り、自分の公職追放解除を条件に、自力による 「日本テレビ放送網」の実現を申し出、波瀾万丈の生涯をおくる氏「戦後」が始まったと言われている。
 1953.2月、NHKがテレビ放送を開始し、同8月、日本テレビが開始した。
 日本テレビはスポンサーを獲得するため、街頭テレビ方式を採用した。東京都内55ヶ所に220台の大型街頭テレビを設置した。郷里の富山も正力氏の郷土であったためこの流れにのって母校の前にも街頭テレビが早くから設置さました。
折からのプロレス力道山ブームも手伝って、街頭テレビには数千人が群がり、熱心にテレビを見入った。
 1955年、第二の民放テレビTBSが加わり、翌1956年、中部日本放送CBC(名古屋)と大阪テレビが開局し全国に広がった。テレビは瞬く間に大衆娯楽の王者としての地位を獲得、1959.44月の「皇太子ご成婚」の儀式とパレードの中継放送によって、テレビ受像機は大きく伸びた。1954.12月の受信契約台数は346万件となり、急速にテレビ時代が始まった。
この【街頭テレビ】が私のテレビ放送】への道に進もうとの思った萌芽でした。

回想録【創造の人】 より
  期待通りの効果が生まれなくとも
  それが創造の芽を生み
  未知数の世界を切り開いて行くのなら
  私は一生その道に打ち込もう
  その道こそ
  私を活かす道だから

小林宏治

【英語を話すことは、もう一つの世界を自分のモノにすることです。】
私が手にした英会話の教科書に小林氏が書かれていた言葉です。

1977年10月10日、米国ジョージア州アトランタで開催された国際通信展「インテルコム77」で、小林宏治氏が基調講演の中でCI(コーポレット・アイデンティティ)をC&Cと言う三つの文字で示しました。
この中で「21世紀の初めには、誰でも、いつでも、地球上のどこでも顔を見ながら話しができるようになる、その実現のために通信、コンピュータ、テレビ放送技術の統合が必要である」ことを示唆。
やがて、通信技術・方式がデジタル化されてコンピュータと同じ性質のものになり、コンピュータは通信回線を介してオンライン化・分散処理化されるようになる。
C&Cは、人間の情報伝達能力の制約を取り除き、能力の限界を軽減するための技術と定義され、現代のユビキタス社会を予見した画期的な提言であった。

五木寛之

昭和7年(1932)、福岡県生まれ。早稲田大学露文科を抹籍になった後、
9年間各種の職業を経験した。昭和40年にはそれまでの仕事を整理してソ連や北欧に遊び、帰国後、玲子夫人の郷里である金沢に落ち着き、「さらば、モスクワ愚連隊」(昭和41年)を執筆、第6回「小説現代」新人賞を受けたのをきっかけに作家活動に入った。さらに42年には「蒼ざめた馬を見よ」(昭和41年)で第56回直木賞を受けた。

私が初めに読んだ小説は、【青年は荒野をめざす】と言う本でした。
1968年に、加藤和彦さん、北山修さん、端田宣彦さんで結成していた、ザ・フォーク・クルセダーズが同名の歌を歌ってヒットしました。
勿論作詞は、五木寛之さんです。

本のストーリーは、植草甚一さん(後で出てきます。)評によると、『ジャズ・ミュージシャンを目指す20歳のジュンは、ナホトカに向かう船に乗った。モスクワ、ヘルシンキ、パリ、マドリッド……。時代の重さに苛立ちながら、音楽とセックスに浸る若者たち。彼らは自由と夢を荒野に求めて走り続ける。60年代の若者の冒険を描き、圧倒的な共感を呼んだ。』 でした。
私は、この本の影響を受け、新宿伊勢丹裏にあった【ピットイーン】にジャズをよく聞きにいきました。そしてジャズピアニストの本田竹彦さんを知り、好きになりました。

直木章受賞の作品「蒼ざめた馬を見よ」のストーリーは、
ソ連の老作家ミハイロフスキイが書いた痛烈な体制批判の小説『蒼ざめた馬を見よ』。主幹にその入手を命じられたQ新聞社の記者である鷹野は、オリガという女性の助けを得て、本人に会い首尾よく原稿を運び出すことに成功します。出版された作品は、驚くほど巧妙に全世界に波及しベストセラーとなりました。そのため、ソ連は窮地に立つことになりますが、その裏には驚くべき陰謀が仕組まれていたのです。

当時、ソ連にアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏(ノーベル文学賞受賞のソ連時代の反体制作家)作家がいました。小説に出てくるミハイロフスキーのモデルではと、私は思っています。
手に汗を握って一気に読みました。

『アレクサンドル・ソルジェニーツィン』
 ロシア南部キスロボーツク出身。ロストフ大物理数学科を卒業。スターリンを批判したとして45年に逮捕され、8年間強制収容所に。スターリン死後の57年に名誉回復され、62年に収容所の体験を基にした「イワン・デニーソヴィチの一日」を発表、世界的な反響を呼んだ。
 以後、「ガン病棟」(68年)、「煉獄の中で」(同年)を国外で出版、70年にノーベル文学賞受賞。反体制知識人弾圧が強まる中で73年に収容所の過酷な実情を描いた「収容所群島」をパリで出版。74年に反ソ活動で逮捕、国外追放となり、76年に米国に移住した。

自分の気持ちにフィットしましたので、その後五木氏の小説、エッセイなど片っ端から読みました。青春時代の思いでの一つです。

新田次郎

にった・じろう(1912 - 1980)
本名:藤原寛人
ペンネームは、出身地の上諏訪角間新田出身の次男という意味だそうです。
ここで書くまでもなく、山岳小説の分野ですぐれた作品があります。

多忙な生活(気象庁の職員と小説家という二足の草鞋)を長年にわたり続けながら、作品を発表。多くの読者を得る。富士山の山頂に測候所を設置するという仕事を成し遂げた後、執筆活動に専念。小説多数。映画化されたものも複数あります。

主な作品に次のものがありますが、私が最初に読んだのが八甲田山死の彷徨」でした。それから登山という趣味と相まって読み続けました。
「孤島」「孤高の人(上・下)」「栄光の岩壁(上・下)」「聖職の碑」「銀嶺の人(上・下)」「強力伝」(第34回直木賞受賞)「八甲田山死の彷徨」(映画「八甲田山」原作)「望郷」「縦走路」「蒼氷」「神々の岩壁」「先導者」「赤い雪崩」「アイガー北壁」「気象遭難」「アルプスの谷」「アルプスの村」「アラスカ物語」「珊瑚」
「銀嶺の人(上・下)」は、著名な登山家である女性医師がモデルと聞いています。

山本周五郎



私が山本周五郎の名を知ったのは、やはり黒澤映画でした。その中でも、一番感銘を受けたのが「赤ひげ診療たん」でした。原作は山本周五郎。これが私と山本周五郎の出会いです。



【赤ひげ診療たん:六助の死】より
保本は赤ひげに一人の死にかけた老人、蒔絵師の六助(藤原釜足)を診るように言われる。赤ひげは保本に対し、人の一生のうちで臨終ほど荘厳なものはないと言う。六助は喘ぎ喘ぎ最後の息を吐いていた。経験の浅い保本にとって、人の臨終にたち立ち会うのは稀だ。それは保本には残酷な光景であった。正視に堪えないものであった。
赤ひげは、安本にこの病気(ガン)はまれだからよく見ておくようにという。
安本 「 するとこの病人には治療法が無いんですか。
赤ひげ「 ない。この病気に限らず治療法など無い。 医術などと言っても情けないモノだ。
医者はその症状と経過は判るし生命力のある固体には多少の 助力は出来る、だがそれだけだ。
     現在、我々に出来ることは貧困と無知に対する戦いだ。それによって医術の不足を補うしかない。
     貧困と無知さえ何とか出来れば病気の大半は起こらずにすむんだ。
     いや。病気の影にはいつも人間の恐ろしい不幸が隠れている。
     ------
保本は、同じ実習生の先輩である森半太夫(土屋嘉男)に困惑を語る。
保本 「あなたは六助の死を荘厳だと思いましたか」
森本 「私も病人の苦痛や死の凄まじさは恐ろしい・・・でも、先生は見る目が違うんです。病人の身体を診察すると同時に人間の心も診察してしまわれるんです」
保本 「・・・・」
森本 「私もね、いつかは先生のあの境地までたどりつきたいと思っています」

六助の死の直後、娘のおくに(根岸明美)が養生所にやって来た。おくには、自分の母親の愛人との間に3人の子供を産んだことも含め、つらい体験を語る。
おくに 「お父つぁんは、死ぬ時、苦しんだでしょうか」
赤ひげ 「いや、安楽な死に方だった」 保本ははっとして赤ひげを見る。六助の最後は壮絶なものだった。それを赤ひげは安楽な死だったと、平然と言ってのける。
おくに 「そうでなくっちゃ・・・そうでなくっちゃ、お父つぁんが可愛そうだ・・・」
おくには安堵の表情で繰り返す。「そうでなくっちゃ、お父つぁんの一生はひどすぎますものねえ」

山本周五郎という作家は、時代物作家です。
じゃ、山本周五郎のどこがいいのか。魅力は何なのか。
それは、泣かせる本を書く人だからです。本を読んで読者が泣くというのは珍しいことです。とくに、僕はそういうことがほとんどありません。それはやはり、映画などとは違い想像力だけが頼りになるからだろうと思っています。
氏の描く主人公は、あまりぱっとしない人物なので余計に身近に感じてしまいます。
たとえば、山本作品の傑作の1つ「さぶ」などがそうです。これも目頭が熱くなるような作品でした。さぶは、ただの愚直な職人さんです。
岡場所で働く女性の話しや武家の婦人の話しなど、胸にぐっと迫ってくるものがあります。

作品:樅の木は残った、さぶ、青べか物語、柳橋物語・むかしも今は、赤ひげ診療たん 、小説日本婦道記など多数

植草 甚一

五木寛之さんの、【青年は荒野をめざす】の評で出てきましたが、一寸気になる人です。

J・Jと呼ばれた素敵なおじさんがいた。植幸甚一。1908年東京・日本橋小網町に生まれ、大学中退後(早稲田大学を月謝未払いにつき除籍。五木寛之氏と同じだ!!(笑))、映画会社入社。40歳で退社すると、旺盛な好奇心と探究心で、コラムやエッセイを次々と発表した。語りかけるような洒脱な文章には、膨大な読書量から得た雑学がちりばめられ、映画、ジャズ、ミステリーの魅力が満載。
生涯、カルテャーを愛し、その自由で何にも縛られない生き方、1976年没。いまでも憧れであり、色あせない。誰にも似ていない、J・Jスタイルまねてみたいモノです。

僕は散歩が好きな男だ。それが何かを売っている場所でないと散歩する気が起こらない。だから散歩と言うよりブラつくと言った方がいいわけで、何かしら買って帰らないと、その晩の仕事がはかどらない。一通り買い物に満足すると、喫茶店に入り、本をバラバラとやりながら読まない頁を破り捨てて目方を軽くする。自宅に帰ると戦利品に目を通し、レコードを聴いたりコジュなどして、ようやく深夜2時ごろから執筆に取りかかる。『JJ氏の男性専科より』

タモリさん談、『亡くなられた後、レコード・コレクションの一部(4,000枚)を引き取りました。コレクションからJ・J像が浮かび上がってきます。無傷のモノもありますが、どちらかというと扱いが乱暴だね。本当にジャズが好きだったのか、ちょっと疑わしい。(笑)初版プレスの貴重盤も300枚ほどありますよ。変わったモノが多くて、たぶんデザインに惚れて、買っていたんでしょうね。そう言う意味でも、趣味人の中の趣味人ですよ。』

松尾芭蕉

李太白




上の詩は、李太白の【春夜宴桃李園序】です。
李白は、常に人生の短く憂いの多いことを嘆き、自分の生命を見つめて、限りある人生を悲しみ歌った詩です。
松尾芭蕉の俳諧には李白の詩文に影響された作が多く見られますが、【奥の細道】のはじめもこの序文の文章を自家籠中のモノとして使っています。
他に、西鶴の【日本永代蔵】にも『されば天地は万物の逆旅....』と引かれていますが、いずれも【古文真宝】によったものであろうと言われています。


好きな言葉

Anne Bradstreet

If we had no Winter, the spring would not be so pleasant..

もし冬がなかったら、春になってもそれほどうれしく感じないだろう。

Anne Bradstreet(アン・ブラッドストリート:1612~1672)
女性詩人。イギリスで生まれ、18歳でマサチューセッツに渡り、詩作に励む。「瞑想」など。

森繁久弥

【本当の幸せにむせび泣きたいのなら、今日の苦しみには
笑って耐えようではないか。友よ明日泣け!】

サイモン&ガーファンクル(英国、歌手)

【明日にかける橋より】

君が輝き出すときがきた
君の夢は何もかも全て、
すぐに叶えられる
輝いて開く夢を見逃さないようにね


大同特殊鋼(東海道新幹線車内で流れていたテロップ)

頂点という実績
唯一という価値
先駆者という誇り
新技術という未来
ひらめきときらめき

まとめ

【人生観なき生き方が、考えない人間を生む】
 夢や目標実現のために、知識をどのように活かし並べ繋いで行くか、それが考えることです。
頭の中に知識があり断片的に理解しつつも、目標への方向性が定まっていないため次へ繋ぐ考え方が持てないでいる、日々の業務を進める上で発展性の乏しさを感じることが多々あります。
この間題には、人生をいかに生きるかという深い観点にまで着目し、それぞれの人生観を養っていく努力が必要なのではないでしょうか。
 私は、『期待通りの効果が生まれなくても、それが創造の芽を生み未知数の世界を切り開いていくのなら、私は一生その道に打ち込もう、その道こそ自分を活かす道だから』 この言葉をベースに自らの人生観を構築していますが、自身の人生観を占めているものは、今までに経験し会得した数多くの事柄によるものが大きいと思います。様々な経験の中から、どう生きるかを探求しなくては、私たちは自分の持っている知識を活かそうとしません。
したがって考えることも疎かになります。使命感・責任感を担って猛烈に勉強し、答えを求め知識を繋ぎ合わせてこそ新しい着想が見え、ここに物事の奥深さを発見できるのです。
 私は、夢・目標をより充実させるためにも、自分自身の人生観とは何かをいつも見つめ直しながら生きています。