この地を訪れると、子供の頃に読んだ【安寿と厨子王】の絵本(森鴎外の小説、山椒太夫)の事が思い浮かぶ。
親不知と、この物語は全く関係ないのだが、
春日(現在の上越市)の浜で福島から京を目指す母子が、日が暮れかかる頃、一行が野宿の場所を探していると、「山岡大夫」という船乗りが現れ、自分の家に泊めてやろうと言う。
また、その勧めで、翌朝は船路で旅発つことにした。
しかし、実は、山岡大夫は人買いであったのである。
そして母と女中は佐渡へ、子どもたちは丹後の由良(山椒太夫)へ売り渡される.....
この断崖が無ければ、このような不幸な目に遭わずに陸地を歩いて京を目指していただろうと。
《親不知・子不知の名の由来については、二つの説があります。
一つは、危険な波打ちぎわを通るときには、自分の身を守るのが精いっぱいで、親は子を忘れ子は親をかえりみるいとまがなかったことから、「親しらず子しらず」だという説です。
もう一つの説は、平安時代末、平清盛の弟、池中納言 平頼盛は、平家滅亡後も一人栄えていましたが、京の子どもたちの悪口に耐えきれず、所領である越後五百刈村(現在の長岡市、旧中之島町五百刈)へ移り住みました。
この夫の後を慕って、ここを通りかかった夫人が、二歳の愛児をふところから落とし、波にさらわれてしまいました。その悲しみのあまり詠んだ歌です。
それ以来、この地を親不知・子不知とよぶようになったという説です。》